職場の廊下などでは、色んな人とすれ違いますよね。
上司、同僚、別の部署の顔だけ知っている人、昔同じ部署だった人、全然知らないけど同じ会社らしい人。
かつて親しかった人、喧嘩したことのある人、なんとなく気まずい人。
すれ違うときに、軽く会釈する人、こちらの存在を気づいているけど知らん顔する人、全く気づきもしない人。
あ、あの人だ、と思ったときに、挨拶しようかな、気づかなかったことにしようかな、相手が気づいたようなら挨拶しようかな、と迷ってしまうことはありませんか。
ちらちら相手の様子を伺うけれど、何やら真剣な顔で考え事をしているみたい。これは放っておいてあげた方がいいかな。
あるいは真っ直ぐ視線を動かさずに歩いて来る人。何か怒っているのかな。なんだか今は声をかけない方が良さそうかな。
知り合いじゃないけど、顔は知ってる人。挨拶しても、誰?という顔をされたら嫌だな。ここは気づかなかったことにしておこう。
結局自分から挨拶をするのは、相手がこちらを見て、ニコニコしてくれているときだけ。
あぁ、挨拶しても受け入れてくれるな、と思うとき。
すでに相手が挨拶してくれる態勢に入っているときだけ。
私はよくそんなことをしていました。
相手の顔色ばかりうかがって、今挨拶してもいいかな、挨拶返してくれるかな、スルーされたら傷つくな、とか、挨拶ひとつで色々考えていました。
そして、挨拶をしないでおこう、と決めたときは、何となく居心地の悪い思いをしながらすれ違いました。
相手の人を無視してしまったような、挨拶しておけばよかったような、いやいや、相手は気づかなかったのだからこれでいいんだ、とか、すっきりしませんでした。
挨拶ひとつで何を悩んでいたのかというと、こちらから「お疲れ様」と一声かけることは相手に関心があるよ、と表明することであり、愛情表現をすることだと私は思っています。
だからこちらから愛情表現をしても、受け止めてくれますか?ということをいつも気にしていたのでした。
私が愛してもいいですか?
迷惑ではないですか?
ということを繰り返し一人で考えていたようなものでした。
そして、挨拶をしなかったときは、「きっと迷惑だ」という結論に達していたのですから、気分が良くなくて当然です。
反対に、「きっと迷惑ではない」と思い、「お疲れ様です!」と元気よく言ったときは、たとえ相手がこちらに気づかずスルーされてしまったとしても、自分は迷惑な存在ではないと思えているので、傷つきません。
人は愛すると気分が良くなりますが、愛を止めると気分が悪くなるといいます。
愛するには、自分が愛しても迷惑ではないという信念が先に必要だと思うかもしれませんが、私が愛してもいいですか?と考えすぎるとなかなか先に進めません。
愛していいんですよ。
それをわかるためにも、自分から愛しましょう。
自分から愛すると、自分の中の愛が増えて、気分が良くなります。
「自分から挨拶する人、挨拶されるのを待つ人」、この「挨拶」という言葉を「愛」に変えてみても同じような意味だと私は思います。
「自分から愛する人、愛されるのを待つ人」
自分から愛する(挨拶する)ことで、気分良く過ごしませんか。
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