カウンセリングサービスの帆南尚美です。
ブログにお越し下さり、どうもありがとうございます。
誰かから一緒に食事をするお誘いを受けたとき、「あ、嬉しいな」と喜ぶことがあるわけですが、
そのすぐ後に、食事をしている光景が頭に浮かび、どうせ自分は会話が続かないだろうな、などと思い、途端にその約束が鬱陶しく、重苦しく、楽しくない予定になってしまうことはありませんか。
きっと相手から話しかけられても、たいして良い反応を示せないだろうとか、相手は私のことをつまらない人間だと思うだろう、
今さら自分が面白くない者だということを改めて相手に知らせることになるのも気が重い。
何よりそんな場にいると、自分が楽しくないに決まっている。
考えれば考えるほど、そんな約束をしなければ良かったと、後悔の連続。
しかし約束を断る勇気もなく、当日まで気が重い状態で過ごしたりします。
そして当日。
できればみんなに楽しい時間を過ごして欲しいな、と、思うものの、自分以外の人たちの視線が気になって、うまく喋れないかもしれません。
人の会話に入れず、人から質問してもらってようやく一言答えるのが精一杯。
結局のところ、やはり自分は人と上手くやれないんだ、と改めて思ってしまうかもしれません。
こんな会合、疲れるだけだ、と思うけれど、とはいえ二度と誰からも誘って欲しくないのかというと、そうではなく、
隣で飲み会の相談をしている話が聞こえて来ると、自分にお誘いの声が掛からないことに軽くショックを受けたりするのもしれません。
さて、人と会う約束が重荷に感じてしまうとき、あるいは実際に会ってみると上手く喋れずに落ち込んでしまう、というとき、
私たちは、自分で自分を見張ってしまっていることがあると私は思っています。
何か一言を発するにしても、こんな事を言って傷つけないかな、こんな事を言ってばかにされないかな、こんな事を言ってつまらないヤツだと思われないかな、と、
いつも自分が何を言うのかを、まるで外から自分を見ているかのように自分でチェックしたりします。
人と会っている間、ずっと自分の言動を一瞬の緩みもなく監視し続けているわけですから、それは疲れてヘトヘトにもなるでしょうし、
そんなに疲れることを楽しみに待つこともできないでしょう。
自分がそのように自分を監視してしまうことや、その結果疲れてしまうことを何度も体験して知っているのです。
では、なぜ自分を自分で見張ってしまうのでしょうか。
それは私たち以外の人々を、私たちを責める人、ダメなところを指摘する人、あるいは嫌なことを言う人だという位置付けにしてしまっているのかもしれません。
自分が何か良くないことを言えば責められるしダメだと思われるに決まっている、だからそうなる前に、自分で自分を見張って、人から責められることのない自分にしよう、と努めてしまうのかもしれません。
とはいえ、実際のところ、そんなに人はあなたの一挙手一投足に興味はないことも多いので、そこまで気にする必要はないのですが、なかなかそうは納得できなかったりします。
子どもの頃から細かいことを指摘し続ける親だったり、
あるいはずっと呑気に暮らしていたのに、あるとき誰かに手痛く自分の欠点を指摘されて傷ついたりしたことがあったりすると、もうそんなことは嫌だ、と、自分を監視する癖がついてしまうかもしれません。
そんな私たちが、こんな風に変わることができたら楽になるだろうな、ということがあります。
それはどんな自分でも、そのまんまでいい、ということではないかと私は思っています。
そのまんま。
これが受け入れられると、毎日が劇的に楽になると私は思っています。
しかし自分がそのまんまで良いなんて、どうやって受け入れられるのでしょうか。
そう、私たちの多くは、自分で自分を嫌っていることがあり、そのまんまで良いなんて思えないのですよね。
そんな自分嫌いの私たちにとって、最初の一歩は、自分で自分をダメだな、と思っているところの棚卸しから始まるように私は思っています。
棚卸しといっても、自分のダメな点をリストアップしたりする必要もありません。
あ、なんかこういう私って嫌いだな、とか、ダメだな、とか思っていることを、一つ思い浮かんだときに、それを誰かに話せるようになることなのではないでしょうか。
人に話せるようになると、自分が欠点だと思っていることは、他人は何とも思っていないのだな、ということがわかったりします。
そのようなことを続けているうちに、そのまんまでもいいのだな、とか、そのまんまって楽だな、そのまんまでいたいな、と思えるようになってくるのかもしれません。
とはいえ、そんなふうにダメな点を話すには勇気がいりますよね。話し相手としてカウンセラーもうまく使ってみてくださいね。
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