映画「約束のネバーランド」をテレビで見まして、そのときに印象に残った言葉。
抗う(あらがう)から辛い。受け入れるの。
夢や希望、愛などを持とうとするから苦しむのよ。そんなものは手に入らないということを受け入れれば、苦しむこともなくなるのよ、観念しなさい、というような意味で使われていたように私は思いました。
ひとりの視聴者としては、「え・・・言われてみれば、そうかもしれない・・。」と思う一方で、「そんな言葉を信じないで!」と主人公に対して祈る気持ちでした。
映画を見終わってからも、心に引っかかっていまして。
なぜならその言葉は、映画の中とは違う意味で、よく私の頭の中に浮かんでくるものだったからなのです。
たとえば人と会った後に「あんなことを言ってしまった。」「あんな態度を取らなければ良かった。」など色々と考えてしまう、いわゆる「ひとり反省会」。
私はかつて、ひとり反省会のレギュラーメンバーでした。(メンバーはひとり)
ひとり反省会は、やりたくないけど、やってしまうのです。
その理由のひとつには、私が他人に対して批判的な心を持っていたからなのです。
「あの人ったら、なんであんなことを言うのかしら!」というように批判の目を向けると、私たちはそれを投影します。
すると、きっと私も誰かに、言葉や態度を批判されるだろうと思うのです。批判されるのは嫌ですから、なんであんなことを言ってしまったのだろう・・・と後悔することになると考えられるのでした。
もうひとつには、私の完璧主義がありました。
絶対に人を傷つけてはいけないと思っていると、誰かとの会話の中で失言がなかったか、ひとり反省会では必死に失言チェックをしました。
そして、この失言チェック。
やめたくてもやめられないことがあるのです。
何度も何度も自分のある発言を思い出しては、なんであんなことを言ってしまったのだろうと頭を抱えるのです。
そしてそういうときに、自分を解放する言葉が、「抗うから辛い。受け入れればいい。」でした。
つまり、失言くらい誰でもするもの。一切失言をしないような、完璧(=神のよう)な人間になろうとするから辛いわけで、失敗も失言もやってしまうのが私なのだよね、と気づくことができれば、少し楽になれるのでした。
さて、ここでモヤっとしたのです。
映画の中の言葉も、私のひとり反省会の抜け方も、同じ言葉「抗うから辛い。受け入れるの。」なのに、一方は、「そんな言葉を信じないで!」と思い、もう一方は自分を楽にしてくれるのです。
なぜだろう・・・。と思いまして、私がたどり着いた結論はこうです。
同じ言葉であっても、映画の中では
夢や希望、愛などを持とうとするから苦しむのだ、つまり愛の無い世界、エゴの世界にいらっしゃい、というエゴのささやきのような気がするのです。だから「そんな言葉を信じないで!」と思ったのでしょう。
一方私のひとり反省会の教訓としては、
一切失言をしないような、完璧(=神のよう)な人間になろうとするな、つまり人間なのに神のようになろうとするのはエゴでしょうから、エゴの反対の世界(=愛の世界)にいらっしゃい、という愛のささやきだからこそ、自分を楽にしてくれる気がしたのかもしれない、と思ったのでした。
ようやく心のモヤッと感が消えた気がしました。