大人になるにつれ、どんどん人が苦手になりました。
みんなみたいに楽しく話したいけど、何を話したらいいか分からないし、どのタイミングで言葉を発すればいいか分からないし、
緊張して顔も引きつるし、人の目も見られない。場の雰囲気を壊したくないから黙っておくと、結局なにも話せず、つまらないし孤独でした。
いつもおとなしいねと言われるのが、残念な気がしていました。
おとなしくしたいわけじゃなくて、表現できないのです。心の扉が開かないのです。
親きょうだいにも気を使って本心を話せずにいて、もどかしく思っていたとき、心理学で補償行為というものを知ったのです。
補償行為は誰かに愛されたいために何かをすることを言うのですが、私はすぐに分かりました。
私はずっと補償行為ばかりしてきたんだと。
私が何かしたいからするのではなく、基本的には教育熱心で間違ったことが嫌いな母に好かれるため。人と話すときも、話したいことを話すということがなく、何を話すことが正解なんだろうといつも考えていたのでした。
人との会話に正解などありませんから、私はどうしたらいいのか分からず、ただ心を閉じてしまっていたのだろうと思いました。
そうか、私がこんなふうに心を開けなくなったのは、母のせいだったのだと思いました。
人づきあいができなくなったのも、言いたいことが出てこないのも、私の人生がしんどいのも、全部母のせい。その後しばらく、母への怒りばかり感じていました。
でもあるとき、心理学の先生が言ったのです。
物理的なものには制限があるが、心には制限がない。
つまり、大人になってから身長をあと10センチ伸ばすことは物理的なことなので難しいけど、心の扉を開くことには何の制限もないのです。力がなくても開けられるのです。私さえその気になれば。
母のせいだと怒っていたけれど、心の扉を開けるのは私だったのです。当たり前だけれど、気づきませんでした。
私は母を心の中で責めるのをやめて、自分の心を開くにはどうすればいいのかについて、意識を向けることに決めました。
心理学で学んだことを、ひとつひとつ実践することにしました。
そうすると、母は悪くなかったのだと思えるようになったりし、ついには以前とは比べ物にならないくらい、楽に人と話せるようになりました。
今となっては、私はもう人見知りでもなくなったようです。
【人生はどうなるかじゃない、どうしたいかだ】
ドラマ「SUITS(スーツ)2」に出てきた言葉です。
初めてこの言葉を聞いたとき、人生は最初から運命のように決まっているのかどうか、ということかと思っていました。
でも今はもう少し違う意味で私は捉えています。
自分以外の要因で、自分の人生がうまくいかなくなったと思うことは誰にでもあるものです。理不尽なことや不運によって、人生がうまくいかなくなったとしても、その状況に文句を言い続け、被害者のような人生を送ることもできるし、あるいは人や世の中を恨むのをやめて、自分の人生を良くしようと思い直し、再出発しようと決断をすることもできるのです。
私たち人間が、素晴らしい可能性に満ちていることを教えてくれる言葉だと思いました。