私が大学に入学して間もない頃、ちょくちょく話しかけてくれた女の子がいたんです。
とてもおとなしそうで、優しそうな子。
でも話すと面白くて、あぁこの子と友だちになるんだな、なんて
ぼんやりと思っていました。
あるとき、その子がうちに電話をしてきたんです。
当時はまだ携帯電話もなかったので、固定電話にかけてきました。
私はなんだろう?と思って電話に出ると、彼女は普段よりも饒舌に、彼女のお母さんの話をするんです。
私はなぜにお母さんの話なんだろうと思いながら聞いていると、
話が少しスピリチュアル的なことに移り、ようやくその電話が彼女の信奉している宗教への勧誘だということがわかりました。お母さんの話は、勧誘の話にもっていくまでの導入部分だったようなのです。
彼女は言いました。
周りの人もとてもいい人達なの。今度一緒に行ってみない?と。
私はそこまで聞いた頃には、とても憤慨していました。
ただの友だちだと思って学校でもおしゃべりをしていたのに、
実は勧誘するためにちょうどよさそうなヤツだと思って品定めして私に近づいてきたってことだったんだ!と。
バカにされたような気がしたので、私は申し訳ないけれど宗教には興味がないので、一緒には行きません、と少し強めの口調で言って電話を切りました。
切ったあとも、なんとなくムカムカしていました。
友だちだと思っていたのに、と。
その後、学校で顔を合わせても、彼女は私に話しかけてくることはなくなりました。
バツの悪そうな顔をして、顔を背けるので、私も話しかけませんでした。
結局そのまま、彼女と話しをすることなく大学を卒業しました。
今となっては、彼女のお名前も忘れてしまいました。
彼女が私を宗教に誘うためだけに近づいてきたのかと思ってガッカリしたとき、私は私自身にもガッカリしていたように思います。
なんだか無防備で、誘えばどこにでも着いて行きそうな、そんな簡単な人間に思われたのかな、と。もう少ししっかりしないとな、と思いました。
ところが最近その彼女のことをふと思い出し、元気にしているかな、と思いました。
元気にしているといいな、だって、私は彼女はいい子だと思っていたから。
とても気の優しい彼女。
本当は友だちになりたかったのです。
友だちになりたかったのに、宗教で繋がるなら友だちになってもいいよと言われた気がしたので残念だったのです。
なんのしがらみもない、ただの友だちになりたかったな。
そんなことを思った時、私は気がついたんです。
「そう言えば良かったな」と。
ただの友だちになりたいんだけど、って。
そして、それが言えなかったのは、彼女に非があったのではなく、私が自分自身への評価が低かったからだと気づいたのです。
私たちは、自分のことをどのように良く(あるいは悪く)思っているかによって、人の言葉をそれに即して理解します。
自分なんて価値のない人間だと思っていると、他の人も私をきっとそのように扱うだろうと思うものです。
これを心理学では投影といいます。
すると、誰かが私にあまり興味の湧かないものを差し出してきた時(今回でいえば宗教を誘ってきたとき)私に価値がないというフィルターを通して相手の言葉を理解するので、私のことを利用しようとしているんだとか、今まで親しく話しかけてくれたのはただ勧誘目的だったんだなどと思ってしまうことがあるのです。
本当はどうだったのでしょうか。
そのフィルターを外してみようとしてみました。
すると、彼女も私のことを気に入ってくれていたのかもと思いました。
少しニュアンスは違うかもしれませんが、ゴルフに一緒に行こうとか、キャンプに行こうと誘うとき、たいていその本人はゴルフ好きだったり、キャンプ好きだったりしますよね。
自分が好きなことに一緒に行こうとお誘いする相手も、好きな人のはずなのです。
だから彼女も私と友だちになりたかったのかもしれないなと思いました。
宗教自体は興味がないけれど、あなたのことには興味がある。だからただのお友だちになれないかしら?
そんなふうにあの頃の私が言えたら、ひとつ出会いを失わずに済んだのかもしれません。
私たちはどんなときも、自分には価値があることをきちんと認めてあげることで、相手の気持ち、相手の愛情を正しく受け止められるのかもしれません。
相手からの愛情を価値のないものと判断してしまわないためにも、私たちはいつも自分自身を良いものとして扱うようにしたいものですね。
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