心理学を学んで、わたしが一番ためになった・・・と思うことのひとつに、
アカウンタビリティという考え方があります。
アカウンタビリティとは、一般的には「説明責任」と訳されることが多いかもしれませんが、
心理学では「責任の概念」と言い、「あなたに起きることは全てあなたの選択によるものである」と考えることを指します。
初めてこれを学んだとき、私は「あなたが選択したものによって、何が起きてもあなたの責任だ」と言われたのかと思ったので「そんなことは、あたりまえだ」と思い、
「なにを今さら」と思いました。
ところが、「あなたに起きることは全てあなたの選択によるものである」というのは、実は少し意味合いが違っていて、
「あなたに何が起きようとも、それはあなたが選択したことなのです」という意味になります。
私に起きることは、私が選択したこともあるし、選択しなかったけれど自然発生的に起きたこともあるのではないかと思ったのです。
たとえば友だちが急に私を無視するようになったとしたら、それは私が選択したことではなくて、友だちがそうしようと選択したわけで、私には何の非もないと思ったのでした。
(実は私はそういう経験が何度もあったのです。)
ところが、話は心のことになりますので、「あなたに起きることは全てあなたの選択によるものである」というのは、
実は「あなたが<感じること>は全てあなたの選択によるものである」と言い換えられるのかもしれません。
いま目の前で起きていることに対して、あなたが楽しいと感じるか、悲しいと感じるか、はたまた頭にくると感じるのか、
それはあなたの選択によるものである、ということなのです。
私たちがある物事に対して、楽しいのか、悲しいのか、怒るのか、などなど、
すべて私たち自身が選んでいる、という考え方なのです。
たとえば友だちが私を急に無視するようになったとします。
そんなときに、
なんでこの人は急に無視するんだ、ひどく自分勝手で冷たいヤツだ、と怒るのも、
きっと無視したくなるほど何か悲しいことがあったに違いないと、相手を思いやるのも、
私たちの選択なんです。
ということは、何か頭にきた、不満に思った、イライラした、などというときに、
そう感じることを選んだのは私たちで、
選んだのには理由がある、と考えられるのです。
だから、イヤな気分、ネガティブな感情を感じたら、
それは相手が私たちに感じさせたのではなくて、
私たちがなにかの理由でもって、そう感じている、感じることを選んでいる、と考えられるのです。
するとですね、イヤな気分を感じたときに、
あいつが悪い、と思ってしまいがちなところを、
いや待て待て、それを選んでいるのは私なので、私はなぜそんなふうに感じているんだろうか、、、などと考えを巡らすこともできるわけです。
そしてそうなると、もはや相手に怒ったりする必要はなくて、
私たちの中で、もうそんな感情を選ばなくてよくなるように、
心を整える方法が見つけられたりするんですよね。
だから、、、というと、分かりづらいかもしれませんが、
とても楽なんです。
相手を責める必要がないから。
相手に変わってもらわなくてもいいから。
私がそんなふうに嫌な気分を感じることになっている理由を見つけ出して、
それを手放せばいいからなんです。
もし誰かを責めたい気持ちがあったとしたら、
それはアカウンタビリティを持っていない、すなわち自分でできることをやらないで、人のせいにしていると考えられるわけで、
自分に対して、成熟した態度じゃないよ、と忠告してあげることができるんです。
アカウンタビリティを持って物事に対応しようとし続けていると、
あまり頭にくることがなくなっていくんです。
なぜなら、頭にくるというのは、誰かに対して「理解してほしい」とか「助けてほしい」とか、「愛してほしい」とかのニーズがあるからなわけで、
その嫌な気分を解決する鍵は私にあるのだと思えば、誰かに何かを求めるということがないので、頭にこないんですよね。
ところが、それでもムシャクシャしたり、なんだか納得しないな、とか、
理不尽だとか、色々な形でやはり文句をいいたくなることはあるわけで、
そんな感情が湧いてきたときに、私はいつも自分に問う言葉があります。
それは、
「誰かのせいで不機嫌になっていないか?」ということなんです。
そのムシャクシャを紐解いたとき、誰かに対して怒っているとしたら、
それはアカウンタビリティを持って対処していないということなんです。
だから、もう一度自分に向き合って、なぜムシャクシャしているのか、
私がムシャクシャすることを選んだ理由を解き明かすという作業をするのです。
慣れてくると、すぐにわかるんです。
あぁ、相手に対して怒っているように見せかけて、
実は私の中で、向き合わずにいた問題があったんだな、と。