カウンセリングサービスの帆南尚美です。
ブログにお越し下さり、どうもありがとうございます。
以前テレビで、小学生のインタビューを放送していました。
今どきの小学生はしっかりしてるな~と感心しながら見ていたのですが、その中である男の子が目にとまりました。
その子は話をしながら、背後にいるお母さんに何度も何度も視線を向けるのです。
私は違和感を感じましたが、あれ、待てよ、これは私もやっていたな、と思いました。
テレビの男の子のように小学生ならいざ知らず、私は二十歳を過ぎても母へのチラ見をやっていたんです。
母がいる場所で何か発言するときには、母の意向に沿ったことを言っているか、いちいち母の顔色を伺っていました。
あるとき、チラチラと母を見ながら言葉を発する自分に「なんか変だ」と思い、「これはやめよう」と決めました。
やめようと思えばやめられるものだな、と思ったのも束の間、物理的にはチラチラ見ることはなくなりましたが、その後もずっと、私は自分の心の中に母を置いて、自分の行動や発言に母が頷いてくれるか確認していました。
それは例えば、仕事のオファーが来たら、これを引き受けると母が喜ぶか、心の中の母に聞きました。
男性とのお付き合いを始めるにも、この人と付き合っていいのか、心の中の母に聞きました。
引越しをするにも、この物件でいいのか、心の中の母に聞いていたのです。
もちろん、無意識のうちに、そしてほんの一瞬のことなのですが、私は母の価値観(と自分で思っていたもの)にアクセスしては、自分の行動を決めていたように思います。
私は、子どもの頃から母の思い通りになることが唯一、母を喜ばせられることだと信じて、それを続けてきました。
母の笑顔が見たいと必死になっていた反面、いつも母に怒られるのではないかとビクビクもしていました。
そして母とは別に暮らすようになってもなお、母に監視されているような気がずっとしていて、なにか窮屈な感じがしていました。
最初は母を喜ばせようと思ってやってきたことですが、そのうち、なんで母はいつまでも私を苦しめるのだろうと思うようになりました。
なぜあんなルール、こんなルールを私に押し付けるのだろう、と。それは徐々に怒りに変わっていきました。
心理学ではアカウンタビリティーという考え方があります。
自分の行動の結果は、すべて自分が選択したものの結果であるというものです。
私は自分が母の思い通りに生きているかいつもチェックをしていましたが、これは母が厳しく私をしつけたからだとか、母の思う通りに生きなければ愛してもらえないからだと思い、すべて母のせいにして不満を抱いていました。
しかしこれらが全て私が選択したものの結果なのだとしたら、私は母の価値観を使って生きるということを自分で決めてやってきたことになります。
私は自分の一人芝居に愕然としました。
と同時に、これからはもう母の価値観ではなく自分の価値観で自由に生きることができ、楽な気分を味わえるに違いない、とも思いました。
確かにその後母の価値観を手放すことには成功したように思いましたが、実際は自由で楽とは異なり、とても怖くて、暗闇に放り出されたような気がしました。
今まで、自分の中の母が右といえは右に行くということをしていましたが、
母から自由になると、当たり前ですが右へ行っても左へ行ってもどこへ行ってもいいんです。
すべてが自分の本当の意志による人生がようやく始まりました。
それはもう、アラフォーも後半といえる頃でした。
私は私の価値観で生きることをようやく選択できるようになりました。
それは、最初こそ不安で心細く感じましたが、慣れてくるに従い、自分の価値観、ひいては自分自身を信じることにつながり、自分を大切に毎日を過ごすことができるようになっています。