たとえば、ついこの間まで「彼氏なんていらなーい。」と一緒に笑いながらしゃべっていた友だちが、いつのまにか彼氏をつくっていた。
それもイケメン。
は?なにそれ?
彼氏いらないって言ってたじゃない!あれはうそだったの?私と話を合わせていただけ?私をだましたの?
という相手への文句も出てくるかもしれないけれど、
それ以上にしんどいのは、
あの子ってもともと性格悪いから、きっと彼氏にバレてフラれるに決まってる。いやフラれてしまえ。
という「不幸になれ~~~。」という、相手を呪うようなことをすると、私たちはとても気分が悪くなるようです。
同様に同僚のひとりがみんなの前で上司に褒められていたのを見て、あんなやつたいしたことないのに、なぜ認められるんだ、ぜんぜん優秀じゃないのに。上司に取り入っているのか?それともあの上司は見る目がないのか?など、相手の優秀さを認めようとせずに「こんなにダメなところがあるぞ~~~。」と、相手の良くない点を探し出そうとしているときも、私たちは気分が悪くなるようです。
この気分の悪さはどこから来るのかというと、
実は私たちの心は、誰かの幸せを願っているときにいい気分になり、誰かの不幸せを願っているときに嫌な気分になるもののようなのです。
嫉妬心というのは、相手が幸せになったことに対して「このやろ~」と思うこととも言え、つまり幸せになるな、不幸せになってしまえという思いであるともいえるので、醜く感じるのかもしれませんね。
スポーツというのは、相手に勝ち、相手を負かすことに精を出していると言えなくもないのですが、嫉妬をともなう競争心と違いすがすがしいと感じるのはなぜでしょうか。
スポーツをするときは、相手が負けてしまえという思いがないのかといえば、そんなことはないでしょう。
相手がミスをしたり、コンディションが良くなければ、「よしっ!」と、相手の良くない状況を多少なりとも喜んで、チャンスがこちらにやってきたぞ!などと思うことだってあるはずです。
反対に相手がベストコンディションで臨んできたときには、なんとか失敗してくれないかな、と思うことだってあるはずです。
しかしスポーツは、相手の失敗を願って、それで終わることはないはずです。
相手の状況がどうであれ、それはひとまず横に置いておいて、より一層自分が前を向くことに集中しようと思うかもしれませんし、
自分は自分なりに勝つことを目指して努力しよう、自分を磨こう、ベストを尽くそうという思いを持ち続けるのがスポーツなのかもしれません。
要は、スポーツであれ何であれ、相手にネガティブなことを感じてはいけないということではなく、たとえネガティブなことを感じたとしても、それ以上に自分の成長や成功に意識を向けられるかどうかが大事なのかもしれません。
相手が素敵なパートナーを手にした、仕事で成功した、お金持ちになった、いきいきと楽しそうに生活しているなど、相手の幸せを喜べずに嫉妬心を感じるとき、あることを忘れがちになっていることが多いようです。
それは、自分もそれが欲しいと思っている、ということです。
相手が手に入れたもの(パートナー、成功、お金、充実感など、あるいはざっくりと「幸せ」など)に興味がなければ、「なにくそ!」と思うということはないでしょう。
あなたがまだ手に入れてられていない状況で、「私も欲しい」と思うことは、とても勇気がいることです。
そのため、「ふん、そんなものは興味ないもんね。」という態度を取ったり、忘れようと努力することもあるかもしれません。
自分には手に入れられないと信じてしまっている、つまり手に入れたいけれど自分には可能性がないと思うと、相手を呪って引っ張り下ろそうとするか、欲しいものから目をそらし、自分の気持ちに嘘をつくようになってしまうのではないでしょうか。
でも、あなたの「ほしい」という思いは大切にされてしかるべきもの、大切にされる価値のあるものと私は思います。
嫉妬を感じている相手と全く同じものが手に入るわけではないかもしれないけれど、あなたはあなたの心を震わせるほどに喜べるものを手にできる大きな可能性を秘めていると思うのです。
欲しいと思っている、でもまだ手に入れられていないという状況を冷静に見つめることができたとしたら、
手に入れられるように努力することもできるかもしれませんし、
どうやったら手に入れられるか分からないならば、誰か知っている人に聞いてみようと思うかもしれません。
ひとりで不安ならば、伴走してくれる人を探すこともできるでしょう。
そのように「手に入れたい」「手に入れよう」と思えたときには、嫉妬を含んだドロドロとした競争心は消え、さわやかに前を向き、良い未来を手に入れようとする思いに変わっているのかもしれません。