先日、87歳になる母と電話していたところ、
母が以前手術をした足がひどく痛むと言います。
我慢強くて痛みにも強い母が、今までにない痛みだというので、
早く病院に行ったほうがいいよ、と私は言いました。
すると母は、自然に治るかもしれないから、もう少し様子を見るとのこと。
すでにひと月も痛みがおさまらないというのに。
私は先ほどよりも強い口調で病院行きを勧めました。
すると母は、病院は待たされるから嫌だと言って、頑なに病院には行かないと言いました。
ああ言えばこう言う母にだんだんと私はイライラしてきたので、じゃあ好きにしてよ、と言って電話を切りました。
そして、深いため息とともに、こう独り言を言ったんです。
「まったくイラっとさせる人だわ。」
自分で言ったその言葉を聞いて、私はハッとしました。
いかん、そうじゃない!
私たちは、イライラしたときに、「あの人のせいで」イラっとさせられた、と思うことがあります。
ところが、実は感情というのは、誰かに「感じさせられる」ということはなくて、すべて私たち自身が、その感情を感じることを選んでいます。
たとえば、「ごきげんよう」という挨拶を誰かにされたとします。
ある人は、にこやかに「ごきげんよう」と返して、挨拶をしてすがすがしい気分になるかもしれませんが、
別の人は、「ごきげんようなんて、上品ぶってるわ。」と思って、嫌な感じがするかもしれません。
同じ「ごきげんよう」と言われても、感じ方は人それぞれです。
いい気分になるか、嫌な気分になるかは、その感情を感じる人の側に、その気分を選ぶ理由があると考えられています。(心理学ではこれを、アカウンタビリティ/責任の概念と言います。)
ということは、母との電話でイラっとした私は、母のことを「まったくイラっとさせる人だわ。」と母のせいにしましたが、
実は私のほうに「イラっとした気分」を感じることを選択した理由があると考えられるのです。
私は考えました。
なぜイラっとしたんだろう。
イラッというのは、軽い怒りであるのですが、私たちが怒りを感じるときというのは、大事なこと、特に分かって欲しい、助けて欲しい、愛して欲しい、のどれかをきちんと相手に伝えられていない時であると言われています。
私が母にきちんと伝えられなかった大事なことは、何だろうと考えました。
そしてすぐに答えが出ました。
私は、痛みに耐えている母が心配なので、なるべく早く病院で診てもらってほしかったのです。私が母に伝えられていなかったのは、母が一刻も早く病院に行って、痛みから解放されて欲しいと願っているほどに私は母を愛しているので、そんな私の愛を受け取ってくれるならば、早く病院に行って診てもらって欲しい、つまり、「私を愛しているなら、私が言う通り病院に行って欲しい」でした。
だから病院に行くと言ってくれない母に、「あなたの言うことには従わないわよ。(なぜならそんなに愛していないから)」と言われたようで、イライラしていたのです。
心理学では、◯◯して欲しい、と思ったとしたら、それは私が相手にしてあげるべきことだと言います。
つまり、「私を愛しているなら病院に行って欲しい」とは、「病院へ行くことで私を愛していると示して欲しい」ということだったのですが、母に「愛を示して欲しい」と思った私は、「毋に愛を示してあげる」必要があったのでした。
私は何をして母に愛を示してあげようかと考えました。
そしてまた母に電話をしたのです。
「もしもし、あのさ、足が痛いって言ってたことなんだけど、私が病院に付き添うから、一緒に行かない?」と私は言いました。
病院に行きなさい、ではなくて、一緒に病院に行きましょう、と言いました。
それが私なりの愛だったのです。
母は一瞬息をのんだようでしたが、すぐにこう言いました。
「ごめんね、でも病院には行かないわ。だってコロナが怖いんですもの。」
!!
なんと、よく聞いてみると、足の痛みは自然に治るだろうから病院には行かないとか、病院は混んでいるから行きたくない、というのは口実のようなもので、実はコロナが怖かったと言うのです。
コロナを怖がっているなんて、恥ずかしくて言えなかったと言うのです。
私は、クスッと笑いました。
なんだ、コロナが怖いから、痛い足も我慢したくなっちゃったんだね。
もう先程のようにイラッとすることはありませんでした。
私は母とにこやかにおしゃべりをして、電話を切りました。
誰かが私をイラッとさせる、と感じる時、
その人への愛を私自身がケチっていることに気づくと、次の展開が見えてくるのかもしれません。