今朝いきなりですが、「あー最近カラオケ行ってないなー」って思いました。
コロナ禍でカラオケを自粛されている方も多いかもしれませんが、
私はそのずいぶん前からカラオケしてなかったな〜と思いました。
そして、カラオケと言えば、私は演歌でしたよ。
なぜって、泣けるんですよねー。
かつてはテレサ・テンさんとか、大好きでした。
「こんな女でも忘れないでね」
とか
「私はひとり去ってゆく」
とか、
涙なくしては歌えません。
彼のことが大好きだけど、ひとり静かにあきらめる状況とか、
どうせ私は愛されないオンナ、と思うとか、
恋愛が成就しないことを苦しみつつも、そんな私はかわいそうでミジメだと、
カラオケが終わって、ひとり自分の部屋に戻ってから、同じ歌を口ずさみながら泣いていました。
当時の私は、自分の恋愛に起きた色々なことについて、こんなに悲しい体験をした私は世界一かわいそう、と思っていたのかもしれません。
物事がうまくいかないとき、そんな私はかわいそう、と思うことはあるものです。
どうせ誰も分かってくれないという気持ちになることもあり、
私はたったひとり、と思っては、また悲しい気持ちになってしまったりします。
「私はかわいそう・・」という思いは自己憐憫(じこれんびん)といいます。
悲しみや苦しみにひたる、という言い方もできるかもしれません。
誰にでもあることですし、本当に辛く悲しく苦しいのです。
自己憐憫から抜けるには、自分が自己憐憫の状態にあるとまず気づくことが大切だと私は思っています。
これは、とても難しいのです。
気づくためには、ほんの少しでも、今の辛い自分の状況を、客観的に見る必要があるからなんです。
辛いときには、自分のことでいっぱいになっていますから、客観的になれていないことにも気づかなかったりするんですよね。
ただ、自己憐憫にあるときに辛いのは、実は本人だけではないのです。
辛く苦しい状況から早く抜け出してほしいと、あなたを応援している人たちが、どれだけあなたを心配し、祈り続けているかにあなたは気づかないのかもしれません。
だからあなたが自己憐憫にあるということは、あなたを心から愛してくれている、そのような人たちを悲しませ続けているということなのかもしれません。
もちろん、意識的にやっているわけではないのですが。
辛くて悲しい出来事から抜け出すのは大変なことなので、時間がかかることもあると思います。
一方、その経験から何かをつかんで、次に進もうとする方もいらっしゃいます。
その違いのひとつは、自分をかわいそうでひとりぼっちだと思うのではなく、自分はそれでも誰かに愛されていることに気づき、そのことに力をもらって、前に進もうと決心することなのかなと私は思っています。